金欠主婦のオタク聖活

専業主婦の鴻ノみやが、少ないお小遣いで目一杯楽しめる趣味を探しているなんでもない日常

人との関わり方が、よくわからない。

こんにちわ、鴻ノみやです。
たまに、結構深くまで考えて、落ち込みます。
やっぱり自分は、社会不適合者なのかなぁ、と。

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基本、人間関係がうまくいかない。
大半の理由は……と言うより、その原因は私自信です。自覚はしてます。
言葉が足りないだとか、言葉が多すぎるだとか、上手なコミュニケーションが取れないので、誤解されたり、怒らせたりしてしまうんです。
でも、それをどう変えるべきか、イマイチわからない……。

コミュニケーションの取り方がわからない

そもそも、気の使えない、気の利いたことが言えない人間なんです。
どうすれば気をつかっているのか、何が気の利いた言葉なのかがわからない。

一時期は、人に嫌われないようにと空気を読む努力をしました。
ええ、もちろん正しい方向に努力していれば、こうはなっていません。間違った方向に努力していたんです。
空気を読む、と言うよりは、空気に同調する、と言う感じでしょうか?
誰のどの言葉にも共感するようにしていたんですよね。それがたとえ、自分の中で間違っていると思っても。
でまあ、これを続けていると、当然矛盾が生じ始めるわけです。
誰の、どの言葉にも、共感するわけですから。

以前共感した言葉と、全く別の意見を持った言葉に共感するんですよ。
そうすると、当然不和が生じますよね。
「以前私の言葉に共感してくれたのに、それじゃあ私を否定しているのと一緒じゃない」と
でも、正直な自分の意見ではないので、以前共感した事柄すら覚えてない。
無自覚に人を傷つける上に、自分の本心も見えなくなってくる。
まあそんな人とは、誰だって付き合いたくないですよね。私も嫌です。

そんな事を続けていたおかげで、友人はどんどん自分から離れていく。
このままじゃダメだ!と思った私は、今度は出来るだけ自分の本音で相手と向き合おう、と思うわけです。
それが、一言多くなったり、空気の読めない発言をしてしまったりで、結局結果は変わりませんでした。
そしたらもう、どうしたら良いのか分からなくなってしまって、本音でも、建前でも話せなくなってしまう。
これが、コミュニケーション能力の低さの原因なのかもしれません。
いや、もうこれ、自業自得でしょ……。


自己否定の強さ

そんな事もあり、コミュニケーションが少しずつ不足していく。
誰に、どうやって、どんな風に、どんな声色で、どんな表情で、何を話せば良いのか、という事を考えて、考えすぎて、自滅する。

これもまあ、自業自得なのですが、そんなコミュニケーション不足から、学生時代、同級生にも両親・祖母にも否定され続けて、今度は謝り癖が付いてしまう
最初は些細な事。
自分の意見を否定されて、謝る。素直に自分が悪いと思うから。
兄妹喧嘩や、両親の喧嘩も、自分が不出来だから起こるのではないかと思い始め、謝る。
友人が傷つくのは、自分と一緒にいるせいなのではないかと思い、謝る。
そうしていく内に、およそ起こり得るすべての悪となる事象が、自分の責任だと思い込み始めて、取り返しがつかなくなる。

ここまで来ると、さすがに謝られる側もイライラしてくる。
私自身は本当に自分が悪だと思うから謝っているつもりでも、相手からしてみれば「謝れば済むと思っている」と思われるから。
謝る事にすら怒られ、否定され、結果、自分が存在している事自体が悪なのではないかと思い込み、自己否定を始める。

今は全くないですが、そんな究極の状態に追い込まれた当時は、平気で自分を傷つけてましたね。
傷がつけば、許されるとでも思っていたんでしょう。そんなはずないのに。


コミュニケーション不足は、集団行動の不足によるものか。

そもそも、コミュニケーション能力というのは、集団行動を行えば身につくものではないか?と考えることもあります。
学校という組織は、それを育成するためのものなのかもしれません。
しかし、私は集団行動が出来ない。出来ていなかった。
同級生からの心無い言葉、行動で、学校に行くのが怖くなってしまったんですよね。
それが小学校から、高校までずっと。コミュニケーション能力が不足しているんですから、学校での集団行動を学べない状態で、学年が上がったからってどうにかなる問題じゃなかった。

私が出来る集団行動といえば、
・集団で決められた時間通りに動く事。(始業時間とか、集合時間とか、そういうの)
・集団で決められたルール・マニュアル通りに動く事。(マナーだとかモラルを守るだとか、会社 で決められた対応方法だとかそういうもの)
くらいです。基本中の基本、出来て当然の事です。

どれだけ仕事ができても、どれだけ時間を守っても、どれだけマニュアル通りに動いても、人とのコミュニケーションが取れなければ褒められることはありません。
むしろ、孤立します。
「仕事できるくらいで、調子に乗って」と。
いや、別に調子には乗ってないけども……。
上手なコミュニケーションが取れない事で、そもそも集団行動できない事で、社会に出てもいじめは続きました。

よく、いじめはいじめられる側にも問題がある、と言われます。
大抵の場合は、そんな事ありません。いじめられる側にはいじめられるだけの理由など持ち合わせていないものですから。
いじめ、というのはそもそも、理不尽なものですから。
でも私の場合、コミュニケーションを培ってこなかった自分の責任なのかも、と思うこともあります。
そんな事はないと言ってくれる人もいますが、根付いた自己否定が、自分を許してはくれません。


個性の望まれない社会

以前どこかで、誰かに「精神病は一種の個性なのだと思う。個性が強すぎるから、そうなってしまうんだと思う」と言った事があります。
妹に言ったのかもしれません。
でも今の世の中、社会の中で、個性って簡単に認められるようなものではないんですよね。
個性よりも、他と「同一」であることこそが正義であり、必要なものなのだと思われている。
どこかの学校で、肌着の色まで指定される、という話がだいぶ前にあったのですが、それが個性を否定し「同一」である事を必要とする、という話に結構結びつけられるのかな?と。

精神的な病云々の話を除いても、私は社会が求めるほどの「同一」にはなれなかった。
女子特有の「一緒にトイレに行く」というのは心底嫌いだったし、「お揃いのものを身につける」という事の意味も分からなかった。

社会に出てからもそうだった。
1番に優先されるべきは仕事だと思っていたし、職務中は必要最低限の会話のみを望んでいた。
時間内にノルマの仕事をきちんと熟したかったから、無駄話ばかりをして手を動かさない人たちにイライラした。
というよりも、その無駄話の間に出来たはずの仕事を、自分に回されるのが嫌だった。
「仕事早いから大丈夫だよね」と言われて仕事を渡されるが、仕事が早いのではなく、無駄な事をしていないからその分仕事が出来ているだけ。
仕事中の無駄な動きは嫌いだったし、常に効率的に動かなかった。

でも今に思えば、それが集団で行動する。という意味だったのかもしれない。
一緒にトイレにいくのも、お揃いのものを身につけるのも、コミュニケーションの一種であり、「同一」である証が欲しかったのかもしれない。
仕事の無駄だと思っていた話も、職場内の人たちとコミュニケーションを取るために必要な事だったのかもしれない。

そう考えれば考えるほど、自分はなんて協調性が無いのだと自覚してしまう。
なんて社会に適さない人間なのだと、否定してしまう。
コミュニケーション能力がないだけで、集団の中に入る事ができない。
集団行動ができないだけで、コミュニケーション能力が身につかず、その人たちの行動の意味を理解できない。
これは社会での生活において、致命的なものなんじゃないだろうか。


自分の作った壁の中から出られなくなった。

そうやって周囲と自分との間にある差異を感じ、人との関わり方が分からなくなった頃、自分の周囲を分厚い壁で覆うようになった。
一人でいる方が楽だし、人と関わると自分の事をもっと嫌いになる。
だから、壁を作ってしまえば、きっと傷つかずに済むだろう、と。

自分らしくあろうとすればするほど否定され、「同一」でないという理由で集団から孤立する。
ならば、最初から輪の中に入らず、孤立を選べば良いのだと。誰かに否定されたからそうしているのではなく、自分がそうしていからしているのだと思えば、寂しくないと。
それは「外に出たくない」「人と関わりたくない」という意思を、より一層強くするだけだったわけですが。

この考えが変わらない以上、私はいつまでたっても人の輪の中に入ってはいけない。成長しない。
そう理解はしていても、一歩踏み出す事が出来ない。
人の視線が怖い。
人の笑い声が怖い。
人の噂話が怖い。

何よりも、自分では否定しておきながら、他人に自分を否定されるのが、何よりも怖い。
自分は自分にしかなれない以上、相手が何を考えているのかなんて理解するのは無理だとわかっていながら、本音がわからないのが怖い。
こんなんで、人とうまく関わろうなんて、出来るはずがないのに……。

そうやって考えて、ひどく落ち込む事があります。
まあ、一時的なうつ状態で、切り替える事が出来ないわけではないのですが。
難しいですね、生きるって。
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