金欠主婦のオタク聖活

専業主婦の鴻ノみやが、少ないお小遣いで目一杯楽しめる趣味を探しているなんでもない日常

結婚は、私にとって最良の薬だった話①

突然ですが、私の両親は、所謂毒親でした。

両親、というか、主に母ですが…。

今日は、窮屈な生活から抜け出して、結婚を名目に家を出た私のお話をしましょう。

 

父親は、殆ど家にいなかった

幼い頃の私は、お父さんっ子でした。

というのも、母親は幼い頃から厳しく、悪いことをすると、それがどんなに些細な事でも、倉庫に鍵をかけて閉じ込める様な人だったんです。

父親はあまり家には帰ってこない人でしたが、帰って来る時は甘えさせてくれましたし、殆ど怒る事もありませんでした。母親よりも、父親の方が優しかったんですね。

 

そんな私は、今では父親がとても嫌いで、出来れば会いたくない人の一人になってしまいました。

きっかけは、父親に連れていかれたバーベキューでした。

 

父親の友人を集めて行われたバーベキュー。兄と妹がいるなか、唯一お父さんっ子だった私だけが、その日、一緒に連れ出されました。

もちろん、当時の私はお父さんっ子でしたし、連れ出されることを嫌がりませんでした。むしろ、一緒に出掛けられることが嬉しかったくらいです。

しかし、私は幼いながらに、見てはいけないものを見てしまったと感じる出来事がありました。

それは、酔った父親は、若い女の体をべたべた、べたべたと触り、あろうことかキスを求め始めたのです。そのことは、今でも鮮明に覚えていますし、気持ち悪い、とも思いました。

 

それから、私の中での父親像は、少しずつ崩れ始めていきました。

その後、父親が使用してた古い携帯を、玩具にしていいと渡された私は、その携帯のバッテリー部分に、女の人と仲良さそうに映っているプリクラと、その女の人のものであろう文字で「あいしてる」と書かれているのを発見しました。

それを見た母親は、顔面蒼白でした。それはそうです。

旦那が浮気している事実を眼前に突き付けられた上に、それを子供が見てしまったのですから。

 

それ以降、我が家は少しずつ、崩れ始めていたのかもしれません。

 

母親に「なぜ離婚しないのか?」と聞いた日

中学生に上がる頃、住んでいたアパートの欠陥が見え始め、引っ越すことになりました。引っ越し先は、父親の実家。

アパートに住んでいた頃から、家が近かったので、何度も遊びに行ったことはありました。土地が広かったので、庭でいくらでも遊べましたし、従妹もいたので祖母の家に引っ越せることに、多少の嬉しさがあったかもしれません。

 

しかし、現実は違いました。

 

日を重ねるごとに酷くなっていく、母親への仕打ち。親戚による、母親いびり。

当時、とある事情で学校へ通うことが出来なくなっていた私は、家にいる事が多く、親戚や祖母から、母親の悪口や愚痴を、何度も何度も聞かされました。

元々、心療内科に通わなければならない程だった私の精神は、より一層病んでいったのです。

 

高校に上がる頃になって、その仕打ちが父親からもある事に気が付きました。

と言っても、直接的に父親が母親を攻撃している、というわけではなく。

「祖母も家族なのだから、それくらい受け入れてやらなきゃ」

「年寄りを優先して考えてやらなきゃいけないだろ」

「それくらい、我慢しろ」

などと、現状を何も把握していないにも関わらず、母親に我慢しろと言うのです。

次第に、母親もどんどん病んでいきました。母親がどんどん病んでいく姿を見て、私は「この人はかわいそうな人なんだ」と思いました。

そう感じてしまったのが、全ての間違いだったのですが…。

 

ある日、母親に聞きました「なぜ、こんな状況化で離婚しないのか、と」

それは、私が高校を卒業し、仕事を初めていた頃の話でした。妹は大学へ通って、アルバイトもしている。私は仕事をして、それなりに稼いでいる。

この状況下で、家を出ない選択肢はないのではないか、と。

母親は「ずっと、世間体とかが怖かった。お母さんは弱い人間だから、本当に離婚してもいいのかわからなかった」と言ったのです。それは、初めて見た母の弱さでした。

 

別居をしてからの生活

結局、母親は「離婚」という決断には至れず、別居という形を取りました。精神的に病んでしまっているから、少し離れて暮らしたい、と。

丁度その時期、母方の祖母が体調を崩しがちだった為、それも良い理由になり、私と妹と一緒に、母は実家へと帰る事になりました。

 

そこからが、酷かった。とにかく、地獄だった。

 

私が、「休んでいい」「離婚してもいい」なんてアドバイスをしたせいなのか、実家にいるせいなのか、はたまた別の理由なのかは分からない。

母親の「お母さんは頑張っているのに」が、母の実家で暮らしてから始まったのです。

元々不登校、鬱というペナルティ―を負っていたせいで、仕事も長続きしないことが多く、唯一長続きしたところは、引っ越しという理由で辞めざるを得なくなり。新しい環境に、中々なじめず、体調を崩しまくる私に母は「お母さんだって頑張っているのに」という、なんとも自分勝手な言葉を吐いて捨てたのです。

 

当時の私はまだ、「私の母親はかわいそうな人」「私の母親は弱い人だから」と、精神的にも肉体的にも鞭を打って働き続けました。

ただ、私は長い時間拘束されると、精神的に崩れて倒れる傾向にあるため、結局正社員には、最後までなれませんでしたが。ずっと、「正社員」という圧力を、実家に居る間は母と祖母に掛けられていたようにも思います。

 

その頃、母だけではなく、祖母からの圧力も酷かった。「休みが続くと、お前はいらない子になる」とか「家にいるのに、この子は何もしない」だとか、とにかく色々言われていました。

私は実家に居る頃、というか不登校になってからというもの、家の事は基本的に全て熟していました。唯一掃除だけは苦手で、上手くできずに中々褒められることはなかったが、洗濯と食事は、昔は褒められていた…ような気がします。

当然、それは母親の実家に移住した後も続いていました。とは言え、基本的に掃除は祖母がやってくれるし、洗濯もたまにするくらいで、基本的には祖母が「やるから大丈夫よ」と言ってくれたので、本当に手伝うくらい。

けれど、食事の準備だけはほぼ毎日作っていました。

 

それでも、何もやっていないと。

意地になって、洗濯はいいよと言われても、洗濯をするようになりました。居間の掃除は祖母がするので、自室と母親の部屋、妹の部屋の掃除もするようになりました。

それでも、私は何もやっていない事になっていました。

それが辛くて、とにかく母親と祖母の言葉を聞きたくなくて、逃げるように仕事へ行き、逃げるように遊びに出ました。

遊ぶ、と言っても、自由に使えるお金は殆どありませんでしたし、ただひたすらバイクを走らせて、遠く、遠くへ行くことしかできませんでした。

実家で暮らしている時は、そんな日常で、特にドキドキすることも、ワクワクすることもなかったですし、自分のやりたい事が何なのかもわからず、盲目的に仕事をしていました。

 

主人の言葉と、毒親というワード

つい最近、毒親というワードを知りました。それが、去年の事です。それに気づくのが、随分遅すぎたんだな、と今はそう感じられます。

そのワードを知ったのは、とある本を読んだことがきっかけでした。これは、また別の記事として紹介したいと思いますので、割愛させて頂きます。

その本を読んで「この人は自分と似ている」と思ったし、その方のツイッターを見て「この人と親の関係は自分と似ている」とも思いました。その方が、「毒親」というワードを呟いていた事をきっかけに、私は「毒親」というワードを調べ始めました。

中にはチェック項目を付けられるものもあって、チェックを付けていったらドンピシャ…。とは言え、実際に自分の親が毒親なんだと思いたくない精神が働いて、そっ閉じ。

 

その後、まだ離れて暮らしていた主人に会いに行って、それら諸々の話をすると主人が「それだよ」と、なんか納得したようにうなずいていました。

 

主人の家は、割と大きな家で、主人が実家を離れてからも仕送りをしていました。大学に通うためのお金も出してくれていたし、主人がこの道ではないと、方向転換した時も、主人のご両親はそれを快諾。そのための費用も出してくれました。

一時期、そんな主人が羨ましくて「拗ねかじっている」とか「甘えて恥ずかしくないの?」とか責めた事がありました。それに対して主人も怒りましたし、かなり大きな喧嘩にもなりました。

 

私の家は、脛をかじるなという家でした。私は高校の時からアルバイトをしていましたし、アルバイト代の半分は母親に吸われていました。もちろん、それに加え携帯の料金も支払わなければならなかったですし、バイクの維持費もかかっていました。

実家に居る限りは、自分のためにお金を使ってはいけないのだと、そう思っていました。だから、主人の両親が羨ましかったのかもしれません。

つまりはまあ、八つ当たりですね。

 

その後、現状を話し合い、主人と同棲する道を選びました。

うちの両親は「この子は家事なんかできないから」とか「だらけた生活になるから」とあまり簡単には受け入れてはくれませんでしたが、主人のご両親は快く受け入れてくださっていて、今も色々支援して下さっています。本当にありがたいです。